編集者 近藤佑子の活動と思考の軌跡

私がエンジニア向け編集者になるまで

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こんにちは、近藤佑子(@kondoyuko)です。

渋谷のIT企業4社が主催するカンファレンス「BIT VALLEY 2021」において、「私たちがエンジニアになるまで」というセッションでモデレーターを担当しました。

このセッションの企画のもとになった「1人の女性がエンジニアになるまで」という記事は、自分はこれまでどのように生きてきたんだろうと、ふりかえりたくなる内容だなと思います。

note.com

最近思うのは「いかにして楽しく働けるだろうか」ということ。そのためには自分がどうなりたいのかをイメージすることが大事だと、いろんな人の話や本を読むなどして理解しているけど、それは、結局は自分自身で作っていかないといけない。雷に打たれるような使命感はどこにあるんだろう? それは過去の自分にあるんじゃないか? と考えました。今の仕事面の価値観に影響してそうな部分を書いてきたつもりでしたが、13000字以上になってしまいました。もうこれ以上過去をふりかえって生き迷わないぞという勢いで、今までの自分をふりかえってみようと思います。

誕生~幼稚園

岡山県備前市というところに生まれました。最寄り駅まで7km、バスは1日数本。周囲にほとんど店もありません。割と(かなり?)田舎な方だったと思います。

父はボイラー技士、母はパートで、両親がかなり高齢になってから私が誕生しました。ちなみに一人っ子です。幼いころに、父に連れられて、大学病院のボイラーを見たり、美術館のCO2測定について回ったりしたのは珍しい経験だったかなと思います。

4歳のときにファミコンを買ってもらいました。初めてプレイしたのはサンリオキャラクターによる落ち物ゲームで、その後もマリオやカービィなど、かわいらしいゲームを中心に色々買ってもらっていました。

生まれてから小学校に入る前までは、特に不自由なく暮らしていたように思います。

小学校

小学校時代は、勉強と絵を描くのが得意で、運動が苦手なタイプでした。

宿題以外は、たまに外で遊ぶこともありましたが、家ではひたすらゲームをやっていました。ゲームの攻略本を読むのが好きで、特に「スーパーマリオランド2 6つの金貨」「マリオとワリオ」の攻略本にゲームの開発者が出ているのを見て、将来の夢として「ゲームクリエイターになりたい」と一瞬だけ考えたことがありました(その他の将来の夢は、画家、漫画家、お花屋さんなど)。

『こどもの工作』という、IKEAの説明書のように文字なしで解説している古い工作の本が好きでした。例えば縄と木で縄梯子を作って、2階の窓から降りてみたり。さらに、『岡山の草花あそび』という、花かんむりなどの草花おもちゃの作り方についての本が家にあり、自然で遊んだり、博物館やプラネタリウムなどの科学館によく連れて行ってもらったりしました。日曜大工や冠婚葬祭、金魚の飼い方などの本もよく読んでいました。

よく読書好きな人による「実家の本を読みふけって……」というエピソードを耳にしますが、私の実家の場合は、このような実用書はあったものの、小説や古典などはほとんどありませんでした。ただ、家には訪問販売で買わされた学習図鑑があり、やることもないのでよく読んでいました。親が高額なものを買わされていることにネガティブに思う気持ちもありましたが、今思えば、暇な子ども時代にWikipediaを読みふけっていたようなものだったので、よかったなと思います。

今でこそ文章を書くようになりましたが、昔は読書感想文で何を書いたらいいか分からなくて、ボイコットしたときもありました。けれど『ゆび一本でカメラマン』という写真撮影に関する子ども向けの本を読んだときには、実際に写真を撮って作文を書いたりしました。気分が乗る/乗らないの違いがハッキリしていたのかもしれません。

小学校低学年まではそれなりに順調でしたが、私が8歳の頃に父が60歳で定年退職し、ある事情で父が借金を抱えることになり、家庭の金銭状況が悪化しました。

これまで甘やかされていたのが、急に経済的に不自由になり、そのため親同士はよく口論となり、ボロボロな家が嫌になり(トイレはくみ取り式だったり、部屋に蟻がよく侵入していた)、さら父の老化を感じるほか病気がちになり(当時は聞かされていなかったけど胃がんでした)、そして学校でも、いじめとまでは言わないもののクラスメイトとの関係がうまく結べずにいて、人生の中でも一番キツイ時期でした。やたら唇と肌のコンディションが悪かったのですが、今思えばストレスだったんだろうなと。

ちなみにパソコンに初めて触れたのは、高学年のときでした。小学校の多目的室にあったもので、学校に1台、という感じなので物珍しく見て触っていただけだったように思います。

中学校

中学校に上がってすぐに父が他界しました。ショックな出来事ではありましたが、貧乏であることに分かりやすい理由ができたことにホッとした記憶があります。母との2人暮らしとなりましたが、仲がいいとは言えない一方、特に干渉もされず、進路という意味ではやりたいようにさせてもらったので、それはとてもよかったと思っています。

父の葬式でゲーム類を片付けたので、テスト期間は勉強、それ以外は部活に専念していました。部活は吹奏楽部でした。吹奏楽部という環境や活動は好きで好ましいものだったのですが、楽器が全く上達しませんでした……なのに大学生まで同じ楽器を続けていて、さすがに違うことをやったらよかったのにと思う一方、他の選択肢では得られなかったであろう青春が得られ、壊滅的だった社交性がある程度人並みレベルになったのも音楽活動のおかげだったなと思います。

テストではほぼ学年1位だったので、2年生のあるとき、担任の先生から「京大に行ったら」と言われました。当時は京都大学と言っても単に京都にある大学としか思っておらず、きょとんとしていたのですが「東大でもいいけど京大の方が合ってそう」と言われたときに、初めてそのレベル感を知り、驚愕しました。まさか、田舎の公立中学で優等生だった程度で東大を目指せるとは思っていなかったのです。

京大に行って、この閉塞感のある地元、そして家から出ようと、大きな目標ができました(ちなみに田舎で車が必須にも関わらず、父が亡くなったことにより車を運転できる人がいなくなり、それが地味にキツかったです)。父の葬式中にも関わらず選挙カーが走っていてうるさいなと思った経験から、もっと政治がよくなったらいいのにと興味を持ち、法学部に行きたいと考えていました。

読書については、定期的に「自動車文庫」という形で市立図書館の本が回ってきていたので、ちょっと背伸びをして柳美里、村上龍などの小説を読んでいました。人生で一番小説を読んでいた頃だと思います。漫画はそれなりに好きでしたが、ラノベはほとんど読みませんでした。

文章については、何かの主張を含んだ作文を書き、それを人前で読むという「弁論大会」と呼ばれるイベントがあり、3年連続で学校代表になりました。また、備前焼に関する作文を書いて県知事賞を受賞したこともありました。何か心に強く浮かんだネタがあれば文章にすることは苦ではなかったようです。

勉強中にFMを聞いていたことから、ややサブカルめな音楽が好きになり、椎名林檎やEGO-WRAPPIN'をよく聞いていました。

中学のときは情報の授業でパソコンを触りました。インターネットで調べ学習をしたり、椎名林檎の情報サイトのようなものをHTMLで作ったりしました。授業の範囲なのでインターネットで公開するまではしませんでしたが。

家にパソコンはありませんでしたが、中学3年生のときには、携帯電話を買ってもらいました。母子家庭で不安なので~と言っておねだりしたと思います。当時はちょっと早い方でした。受験もあるのでそこまでのめり込んでいませんでしたが、椎名林檎の公式サイトなどをモバイルからチェックしていたように思います。

交友関係については、いわゆるスクールカーストの最下層の方にいつつ、ヤンキーから容姿などを理由に嫌がらせがありながらも、個性的なキャラ(痛いキャラとも言う)で回避していました。

高校~予備校

高校は公立の進学校に入りました。自由な校風で居心地はよかったです。

勉強と、吹奏楽部と、文化祭の実行委員が高校生活の3本柱でした。そのなかで自分がうまく貢献できたかはともかく、舞台やイベントが好きだったんだと思います。

進路については、興味がある学部が文理いろいろあって迷っていました。理系科目のほうが比較的得意だったので「理系から文系は後から変えられる」ということで消去法で理系に行きました。その後、吹奏楽だったり好きな音楽の影響で、PAや舞台音響の勉強がしてみたいなと思い、専門学校や九州芸術工科大学(当時)などを視野に入れつつも、やっぱり京大への思いが捨てきれず。担任の先生からも「進路を具体的に絞れ」と言われ、考えたのが「建築」の道に進むということでした。

建築は、社会、アート、テクノロジーのすべてに接続し、関心の高かった音響についても関わることができる。「京大の建築学科に行ってコンサートホールの設計をしたい」と進路が明確になりました。

高校生の頃、ついにパソコンを買ってもらいました。しかしインターネット回線の引き方が分からず、黒電話の実家ではそもそも引けるのかも分からなくて、持て余していました(もったいなかった)。

なので主に携帯電話からインターネットをしていました。モバイル用のページのほか、PC用のページも一部読み込んで見ていました。そのため、パケ代が数万になってしまったこともあります……(その後パケット代定額の端末に変えてもらいました)。2ちゃんねる(当時)を漁って、椎名林檎についての情報や、携帯電話端末の最新情報を見たり(当時からガジェットオタクの気質があった)、Flashを見たり、電車男のまとめサイトを読んだりと、作ったり交流したりはしていませんでしたが、見る専門のインターネットユーザーとして過ごしていたと思います。早々にPCからインターネットに触れていた人をうらやましく思いますが、当時インターネットができてたら勉強に集中できていた自信もないので結果オーライかもしれません。

現役では大学に落ちてしまったので、浪人生として予備校に通いました(学費は免除になりました)。気の合う友人に囲まれつつ、勉強に集中できて、やればやるだけ成果が出るという穏やかな日々でした。

勉強の合間にインターネットは嗜んでいて、カナヘイさんを筆頭に、壁紙を配布しているイラストレーターさんのサイトによく訪問していました。そのうちのお一人は、音楽の趣味も合っていたのでコメントでよく絡んで、キリ番の絵を書いてもらったりしました。また、当時巡回していたアーティストさんのうちのお一人は、今もSNSでつながっていて、展示やイベントで何度かお会いし、作品を持っていたりもするので、ご縁だなぁと思います。

サイト制作については、今でいうポイントサイトのようなものを携帯だけでポチポチ作ったことがありました(が、恥ずかしくなって程なくして辞めました)。

大学

そしてついに大学生活へ。京都に引っ越し、大学のとある寮に住みました。

「コンサートホールを設計しよう」と意気揚々として入学し、新入生向けのゼミで、音響工学の先生にそのことを伝えたところ「日本にはもうコンサートホールは建たないよ」と言われ、ショックを受けました。そう言われたとしても音響の研究をすればいいとは思うのですが、その一言でもういいやと諦めてしまいました。

大学生活の前半は、建築、所属していたオーケストラ、寮の活動を3本柱に、細々とバイトをしていました。

建築学科の花形である設計課題。最初の方の図面の模写まではついていけて、成績も悪くなかったのですが、課題が進んでいくと、同級生との協力や、上級生に教えてもらうといった「製図室ネットワーク」にうまく馴染むことができず、さらに計画性のなさも相まって、ひどい出来の課題しか提出できず、設計は向いていないなと思うようになりました。

ただ、自分が特によく出来たなという思い出がある授業でいうと、学部1回生向けの授業「日本都市史」で、「京都の都市を実際に歩いて論じなさい」というテーマの課題が出ました。この担当教員は、レポートを出したとしても、基準に達していなければ遠慮なく不可にするという厳しさで有名でした。私は、京都の通りに関心を持ち、暑い中実際に自転車で走り回って、京都のそれぞれの通りの特徴と、南北と東西の通りの違いなどについて論じたところ、なんと優をくれました。

さて、早々に「建築を建てる人」への興味を失った私は、将来をどうしようかなと思ったときに、建築学科では、講義として「まちづくり」もよく扱うため、まちづくりや都市計画などに関わろうかなとふんわり考えていました。そのとき関心を持ったのが「アート」でした。建築学生として、建築を見るための国内旅行を良くしていたのですが、そこでよく見に行ったのが美術館だったのでした。美術館ならお金がない人にもパブリックに開かれているところがよいと思ったのです。

大学生活の後半は、アートイベントのボランティアや、学外のイベントへの参加など、徐々に外の活動に目を向けていきました。その中で「建築関係の展示を専門とする学芸員がいない(少ない)」と知り、建築キュレーターを目指そうと、学芸員資格取得のための単位も揃えました。研究室選択では、「建築を作るより建築を批評する立場になろう」と、建築史の研究室に入りました。指導教官は、日本都市史で優をくれた先生でした。

学部生活最後の年は、ゆるゆるとアートに関する就活をしつつ、勉強に対して身が入っていないにも関わらず大学院の試験を受け(学部生の体感で8割くらいが修士へ進学していたので、進学するものだと思っていた)、当たり前に落ちてしまいました。研究も何とか終わらせるといった感じで、何もかも中途半端だったなと思います。大学院は、アート系の研究ができる、学際的な研究室まで視野にいれていたので、本当に迷走していたと思います。

そんな学部生活でしたが、ついに自分のPCでインターネットを使うことができました! 主に、ユーザーとしていろいろなサービスを使っていたと思います。10代の頃はオタクと言うよりサブカルだったのですが、20代からオタクコンテンツ(深夜アニメとか萌えとかギャルゲーとか)にハマり出して、東方Projectと京都アニメーション作品を中心に、色々と流行っているものを見ていました。

プログラミングに初めて触れたのは大学の授業でした。建築でよく使われるからとFORTRANを習いましたが、階段の寸歩を算出するようなプログラムを書いたことを覚えています。特にすごく面白いと感じたわけでもなく、数学や構造力学などの他の授業と同じ感覚で受けていました。

ブラインドタッチについては、学部生時代に練習してなんとかできるようになりました(使ったのはソースネクストの「特打」というソフト)。

大学3回生のとき、初めてブログを立ち上げました。内容はささやかな日記で、数か月で辞めてしまいました。mixiでも日記を書き始めるようになり、足跡やイイネ!などのリアクションが得られるのが嬉しくて、毎日のように夢中で記事を投稿していました。インターネットで文章を書くことが楽しい、インターネットが自分の力を拡張してくれた原体験だったと思います。

大学4回生になって、はてなダイアリーとTwitterを開設しました。Twitterは広瀬香美さんによる「ヒウィッヒヒー」が流行り、メディアでも話題になり、ユーザーが拡大してきたころでした。最初は建築やアート関連、関西クラスタの方中心につながり、学外の建築学生や建築家の方などと、Twitterを通じてつながるのがすごく面白かったです。

Twitter、ほんの初期は匿名アカウントにしていたのですが、イベントでつながったときに自己紹介がしづらく、実名アカウントに変えました。まわりの建築家や建築学生もそんな感じの人が多かったです。ハンドルネームに憧れがありましたが「kondoyukoというハンドルネーム」のつもりで使ってきました。京都に住んでいましたが、東京にもよく遊びに行っていたので、イベントに参加したり、色んな人に会ったりしていました。

何も進路が決まっていなかったけど、学費のこともあるので(学部生は経済的事情で全額免除してもらったけど、留年だと学費がかかってしまう)とりあえず卒業してしまうことにしました。指導教官から最後に「近藤さんはやりたことを絞ったら」と言われてしまいました。

大学院浪人

大学卒業後は、京都工芸繊維大学の研究生をしていました。2つの研究室のゼミに参加して、ひとつの研究室では修士で取り組もうと思っている研究についての発表を、もう一つの研究室では、京都のモダニズム建築についての展示を進めていたので、手伝うことになりました。カタログ編集チームとして、紙面レイアウトやインタビュー原稿の作成に取り組んでいました。

www.museum.kit.ac.jp

実は研究テーマは、アートや建築の展示からは実は関心が離れてしまい、京大にある「吉田寮」という学生寮の研究がしたくなっていました。吉田寮は、築100年を超える木造の学生寮で、学生による自治が行われており、吉田寮食堂など一部施設は外部団体も利用することができ、ライブや演劇、イベントで盛り上がっていました。私が好ましく思う、文化的な建築とは、世間的に評価された有名建築家による建築ではなく、吉田寮のようなセーフティーネットであり、さまざまな文化的バックグラウンドのある、ボトムアップ的なカオス空間だったのです。

大学院試験の勉強も進めていましたが、東大のとある研究室に見学に行ったあと、教授にTwitterの過去ログを見られ「きみ、面白いね」と言われる運命的(?)な出会いを果たし、その研究室を第一志望に、2か月くらい泣きそうになりながら勉強をして、無事合格を果たしました。

この年、頻繁に東京に遊びに行っていたのですが、ギークハウスというエンジニアやインターネット好きな人が集まるシェアハウスによく滞在し、濃いインターネットの人と知り合いになりました。大学院試験の合格が初秋ごろに分かったので「新しいことを勉強したいからプログラミングがやりたい。おすすめの言語は何ですか?」と聞くと、Haskellだのなんだのと冗談で言われながら、最終的に「Rubyはどう?」と言ってもらい「名前がかわいいからやってみよう」と思って勉強することにしました。

大学院試験の勉強をしているとき、ついTwitterをやりすぎてしまって困ったので「試験勉強までの日付をカウントダウンして自動投稿したい」という目標がありました。

勉強した結果、API経由でのツイートができるまでにはなりました。

まわりのエンジニアの友達が困ったときには教えてくれて、心強かったです。

あとはアルバイトとして京都にあるITベンチャーで働き、テスターのバイトをしたり(いわゆるスクショをペタペタするやつ)、フリーソフトの解説記事を書いたりしました。

そういえば大学院への進学の直前には、東日本大震災がありました。ちょうど東京に研究室に挨拶に行っていた頃で、しばらく研究室で過ごさせてもらい、滞在させてもらう予定だったシェアハウスで過ごしました。

大学院

大学院に進学し、上京しました。大学院でも寮に住んでいました。研究室の活動として、東日本大震災の被災地でのボランティアやフィールドワーク調査、小学校でのワークショップ運営、初めての海外渡航としてインドネシアのジャカルタ調査などを行いながら、自分の研究を進めるという感じでした。さらに研究室のWebサイトを更新したり、ちょっとしたものを新しく作ったりなどの、研究室内情シスみたいに振る舞っていました。

私が修士課程を過ごした2年間は、東日本大震災後の「絆」需要で共同生活への関心が集まったり、同時にビジネスでの参入が増え、「脱法ハウス」も話題になったりして、シェアハウスへの注目が高まった頃でした。私自身、実家を離れても寮やシェアハウスでしか暮らしたことがなく(今に至るまで1人暮らしをしたことがない)、共同生活に強い可能性を感じていて、「今話題になっているシェアハウスは、実は学生寮という形で、それこそ旧制高校の時代からあるんだ」「学生寮の歴史を追うことで、これからのシェアハウスに対して何か提言できるかもしれない」と考えていました。

着眼点は今でも悪くないと思うのですが、それを実現するためにどうしていくかの具体的な落とし込み方、そして計画性が足りず、最終的な研究はあまり満足の行く出来ではなかったなと思います。親身に指導いただき、期待していただいたのに申し訳なく感じています。

ちなみに、日本建築学会で発表した梗概はCiNiiにも残っています。

ci.nii.ac.jp

入学当初のゼミで、「研究に関係する本を読んで書評を書く」という課題があったのですが、教授からは「普段本を読まない割に文章がうまいね」とのフィードバックがありました。最近思うのは、私は本を読むのが苦手なのではなく、難しい本を読むのが苦手なだけなんじゃないかなと感じています。

Twitterでお知り合いになった別分野の研究者さんを、自分の研究室のプロジェクトに軽い気持ちで誘ったことがありました。その時は「きっと引き合わせると面白いことがあるだろう」という直感が働いたという感じで、理由をうまく説明できずにいたら、詰められたこともありましたが、その後も色々お付き合いが続いていたようでよかったなと眺めていました。そういう、謎のフットワークの軽さと直感の鋭さみたいなところがあったと思います。

さて、入学当初の私は、うっすら博士進学なども視野に入れつつ(進学したとしても到底通用しなかったと思いますが……)「就職はIT関連の仕事をしよう」と考えていました。

大学院の授業の履修は割と自由度が高かったので、チームでWebサービスの企画を考える授業や、Googleの人がゲスト講師をする授業(途中でついていけなくなりました…)など、さまざまな授業を取りました。建築の授業は必要最低限だった気がしています……。松尾豊先生の授業を履修した際には、某著名スタートアップの創業者の方々と同じ授業、同じチームだったりして、なかなかすごい環境だったなと思います。

IT企業でアルバイトもしていました。プログラマーの真似事をさせてもらい、よくあんなスキルで雇ってもらえてたなと、会社の人も仲良くしてくださってありがたかったです。

2011年には、学生ということで無料で参加できたので、RubyKaigiに参加しました。セッションの内容はよく理解できなかったのですが、カンファレンスの雰囲気を楽しみました。

就職活動に関しては、人よりゆるゆると遅めに動き出し、IT企業を中心に見ていました。知り合いのエンジニアはみなユニークで面白く、そんなエンジニアがたくさんいるIT企業は自由で新しくて面白い環境だろうと思い、知り合いが勤めている企業や、サービスに興味を持った企業を中心に見ていました。学歴もあるし、多様な経験をしてきた自負があったので、どこかしら受かるだろうと思っていたものの、今思えば、就職活動を完全に舐めていて、完全に準備や心構えが不足していました。「建築の修士まで行ったのになぜこの企業で働きたいのか」もうまく説明できずにいたと思います。

ちなみに、IT企業といってもどんな働き方があるのかあまりイメージできていなかったなと思います。エンジニア職は、一応チャレンジした経験はあるものの、私がかつて建築を建てる側ではなく伝える側に回りたいと思ったのと同じように、エンジニアではなく、テクノロジーに関係する企画や、テクノロジーを広めていく役割のほうが自分に合っていると思ったのかもしれません。エンジニアでもデザイナーでもない、Webディレクターや今のようなプロダクトマネージャーの仕事があれば、もしくはそこへのキャリアパスが見えていたら、志していたかもしれません。

今思えば、エンジニアとしての経験を積んでおけば……という気持ちもあるのですが、就活している当時ですでに25歳であり、あまり回り道はできないぞと思ったのと、エンジニアとして極めていける自信がなかったのもあったと思います。

手持ちのカードが無くなって途方に暮れた2012年5月の誕生日前、「誕生日に何か面白いことをしよう」「既存のネットコンテンツをリサーチし、企画・ライティング・実装まで行えることを示す作品を作り、面接のネタにしよう」と思って作ったのがこれでした。

mechayaba.kondoyuko.com

これは大変バズって、はてなブックマークは900以上、PVもその日だけで10数万ほど獲得し、一連の取り組みを朝日新聞に取材いただいたりしました。このおかげでかなり知り合いも増えました。

よく聞かれるのですが、今の会社は上記サイト経由で決まったものではありません。たくさん反響をいただいたものの、その状況をうまく次につなげてていくほどの器用さは私にはありませんでした。サイト経由でご縁があり、とあるメディア企業の編集者として内定をいただきましたが、待遇面が厳しく辞退することにしました。

ほかにも、インターネットで話題になっていて興味を持った小さな出版社を受けたり、某外資系企業のエバンジェリスト職がなぜか新卒向けにオープンだったので受けたりしましたが、両方とも落ちました。まずは修士論文を書こうということで研究に専念することにしました。

どうにかこうにか修士論文を出して、修了することにしたものの、進路は決まっていませんでした。

就職浪人 兼 フリーランス

この1年は、お知り合いから仕事をもらって細々と食べていけそうだったので、その状態をフリーランスと言いながら、就職活動を継続することにしました。最初のうちは既卒でも受けられる新卒枠を狙って活動していました。6月頃に当時の第一志望を最終面接で落ち、悲嘆に暮れていたので、「一応仕事をしているし新卒ではなく転職を狙おう」と、複数の転職エージェントに登録して、転職サイトをチェックするようになりました。若者向けのハローワークにも行きました。

転職エージェントは親身になってサポートしてくださって、面接についてはかなり鍛えられたと思います。まともな就業経験がないのに面接で会ってくれたのは、20代だったからか、学歴があったからか。相変わらずIT企業を中心に受けていましたが、エージェントの紹介で、とある業界紙の採用を受けたときに、「専門的な内容を伝える編集者は自分に向いてるかもしれないぞ」という感覚があり、以降、専門系の記者・編集者や、大学の広報などの採用を受けると、以前とは違って高確率で選考に進み、手応えを感じました。

そのうち内定をもらった1社が、今の会社です。

会社に入社~現在

テクノロジーに関係するWebメディアの編集者をしたい、ということで今の仕事をやらせてもらうようになり、8年目になります(もうそんなに……)。

会社員になってからの色々はこちらに書いたのでここでは割愛します。

www.e-aidem.com

kondoyuko.com

だいたい3年に1度くらいのタイミングで大きな立場の変更があり、やることが多様化して(増えて)いっているので、同じ会社でも飽きないなぁと思います。

これまで分かりやすい課題や目標が定期的にあって、そこに向かって突き進むという感じだったのが、今の課題は、分かりやすい目標が無いということでしょうか。昔に比べたら、仕事面での裁量が増え、パートナーもできて、状態はすごく良くなっているはずなのに、日々の学びや夢中になれる感じが薄くて、あまり幸福を感じていないことに課題を感じています。あとはコロナ禍もあり、仕事のプライオリティを自分の中で上げざるを得ないところもあって、プライベート活動があまりできていなかったり、プライベートで何かやろうと思っても「そんなの意味があるのかな」と思ってしまって手が止まったりするところですね。

そういうとき、子どもがいるとまた視座が変わるだろうと思いつつ、自分の育った家庭環境と容姿の自信のなさと、子育てやっていけそうにない、子どもが好きになれるかわからないという点(+パートナーの意向)で、まぁ子どもを持つ人生を選ぶ確率は低いだろうなと思います(それでも子どもを持つなんて全くありえないと感じていたところから検討するまでにはなったので、だいぶ過去のことが癒やされたんだろうなとは思います)。

これまでをふりかえって

会社に就職するまでは、「私はお金がないなかここまで来れた」という自負と、だからといってお金を稼ごう、人の役に立とうと思うわけではなく、何か面白い学問を極めよう、極めた内容を発信しようという趣向だったように思います。目立ちたがり屋でもありました。しかし、難しい本や論文を読んだり、議論をするなどの、勉強ができる「以上」のことが苦手で、学問や研究面ではあまりパフォーマンスが出せていませんでした。

とりあえずやってみることのハードルの低さや、ピンと来たものをやっていく力(そしてピンと来なかったものはやらないこと)、自分の居場所から外へ外へと出ていって、何かと何かをつなげたり、たくさんの人と出会ったりするのは、好きで得意だったなと思います。

大学や大学院、住んできた場所や取り組んできた活動などは、導かれるように、選ぶべくして選んだようにも思うのですが、建築しかり、吹奏楽での楽器しかり、そのときは「これしかない!」と思っても、成果につなげられず、その後やめてしまって、やってきたことがしっかり積み上がっていない感覚があります。

以前の私には、会社員になると「学びが終了してしまう」というイメージがあったのかもしれません。しかし、会社員になってからのほうが、捗らずうだうだ過ごしてしまう時間が減り、学びも多く、自分のスキルがきっとお役に立てているのだろうなという感覚もあります。あとお金を安定してもらえるのは本当に気持ちが落ち着きますね……。

会社の20代前半の若手を見ていると「すごく優秀だなぁ」「私もなる早で会社員になるべきだった」と思う反面、昔の自分がそういう発想になりようがなかった気もしていて。自分の生き方がダメだとも、自分の生き方だからこそいいのだとも言わず、ただ、自分がこれまで持ってきた価値観、やってきたことなどのカードを元に、これから何をすれば一番楽しいかを、考えたいなと思います。

ジェンダー的にはそこまで不遇な扱いを受けたことはなかったように思います(IT系メディアの編集者(編集長)が女性だということで驚かれたことはありましたが)。学生時代までは、勉強ができたことと、舐められないようにキャラで突破していたこと、仕事をするようになってからは、自分が制作したサイトについて知ってくださっている方も多かったです。どちらかというと、容姿やコミュニケーションの面において、文化的バックグラウンドを共有していない環境でうまくパフォーマンスできないことが多かったように思います。

逆に「女性でよかった」と思う出来事で言うと、会社に入ってすぐ、会社の先輩の誘いで、女性が登壇するLT大会に参加し、飛び入りで登壇もさせてもらいました。今でもずっとご縁の続いているIT業界の女性の方とたくさん出会えました。

techgirl.doorkeeper.jp キャリアの最初のうちで、もしこうしたイベントの存在を知らず、男性が多いコミュニティの存在しか知らなかったら、参加してインプットをすることはできても、つながりを作る取っ掛かりが得られなかったように思います。こうしたイベントに参加して、最初の一歩を踏み出せたからこそ、今は男女問わず対等に振る舞えるようになったと感じています。

そういえば、就職活動をしていた当時、私は「なぜ就職活動をするのか」という理由を真剣に考えていました。勤労は日本国憲法でも定められている人間の義務なのに、理由付けがないと行動ができなかったのです! それは以下の理由からでした。

  • 奨学金を返し、お金が無くて諦めていたことをやるため(例:歯列矯正)
  • 学生から社会人への状態変化に関する興味
  • 就活制度自体への興味

(『仕事文脈 vol.1』(2012、タバブックス)に寄稿した内容から改変して掲載)

ひさしぶりに内容を思い出してみたのですが、世の中のへの興味にあふれていてくらくらします。今の自分に火を灯すのは、昔の自分の熱量かもしれないなと懐かしく感じながら、この長いエントリを終わろうと思います。